◎院長紹介・治療内容
ゆうわリセット治療院 院長 中尾友哉です。
あなたの人生において
最も大切にしていることは何ですか?
それが、「健康」でしたら
あなたの理想を叶えられると思います。
まずは
私がなぜ治療家になったのか
そして
なぜ「治療オタクよね」と呼ばれているか・・
我が家は
祖父、祖母、父、母の全員が現役の治療家で
まるでサラブレッドのような形で
生まれ、育ちました。
物心がついた頃から
指先の感覚や、治療技術などを
遊びのような感覚で教わっていました。
それらが治療家人生にとっての
大きな土台となっているのだと思います。
祖父母は、日本に古くから伝わる
伝統的な東洋医学を幅広く勉強し、
博識があり、人望の厚い人格者でした。
両親は、整形外科出身ですので
西洋医学的な治療が得意で
骨折、脱臼、捻挫など
ケガに対する知識と経験に
長けていました。
実際に、
肩やヒジの脱臼、手首や指の骨折、
アゴの脱臼、ろっ骨の骨折
などなど・・・
手慣れた様子で、鮮やかに治す姿を
そばで見ていました。
後に、全て教えてもらい
実践させてもらいました。
そんな、東洋と西洋の
考え方が絶妙にブレンドされた環境で
自然と英才教育されていたように感じます。
田舎の治療院にも関わらず、
周辺地域の方にも愛され、そのご縁が広がり、
他県からも、
沢山の患者さんが集まっていました。
それが僕の自慢でした。
ですが
思春期に入った頃から
治療の世界から気持ちが離れていきました。
進路を考えるようになった私は
治療の道ではなく
理系の大学を目指すようになっていました。
大学生活ではいろんなことに挑戦しました。
大好きな音楽にはまり、
興味がある場所はどこへでも
出かけていき、
ずっと続けているバスケにも熱中したり
そこそこ勉強もがんばっていました。
就職活動が始める前の
基礎学力を調べるテストでは
2000人中9番の成績を出し
仲の良い友達らを
ゾッとさせた記憶もあります。
それだけ、何事に対しても
「凝り性」と言いますか
「オタク気質」で、
暇な日がないほど
充実した毎日を過ごしていました。
就職を考えた時
改めて、自分が
情熱を注げる職業を探していると
思い出したかのように
「治療の道」
が浮かんできたのです。
祖父母、両親に対する尊敬、憧れの念が
一気に高まり、即決断していました。
まずは、
広い世界を知るために大阪へ行き
両親の知人の院であり、
日本で一番の患者数を誇る
有名治療院で修行することになりました。
それと同時に
国家資格を取得するため
お昼休みの時間は
専門学校へ通わせてもらうことになりました。
想像を超えた
厳しい修行の始まりです。
治療院の先輩たちは
日本中から集まってきた猛者ばかりでした。
1日に300人以上の患者様が集まり
診療時間が終わると
勉強会がはじまります。
毎日、朝6時から晩の12時まで
隙間のないほどの
過密スケジュールでしたが
同志がいてくれたことと
自分の成長が目に見えて実感できたことで
不思議と辛くはありませんでした。
何より、周りの先輩方が、みんな
意識の高い人ばかりでしたので
良い影響をたくさん受けました。
みんながいたから自分があると思っています。
心の底から感謝しています。
そのうち治療院の中でも
主力として働けるようになっていました。
セミナー活動で、全国の治療家の方へ
治療を教えられるような立場にまで
成長でき、順調に経験を積めていました。
そんな時、実家の祖父母が
現役を引退することになったのです。
それをきっかけに地元へ帰ることとなり
ました。
いよいよ地元へ凱旋し、当時の私は
「自分は日本一の治療家集団の中で
最高の技術を身に着けてきたんだ!」
「結果も残してきた!」
「帰ってからも伝説を残すぞ!」
と鼻息が荒かったと思います。
が
現実は、そんなに甘くなかったのです・・・
当時の治療は
背骨をバキバキ鳴らせるような
カイロプラクティックがメインでした。
びっくりされるイメージを持たれる方もいますが
熟練した技術がありますと
痛みは感じませんし、
一気に症状が抜けていく感覚があります。
地元でも腕を振るい
たくさんの方に喜んでもらえるようになり
順調に患者様も増えていきました。
「若先生はすごいねぇ!」
「帰って来てくれてありがとう!」
と、多くの支持を得られるようになり
20代の自分は
いい気になっていたんだと思います。
そんなある日、
「若先生の治療は、あまり受けたくない」
といった声が耳に入ってきました。
しかも、長年の頭痛が
私の治療で治った方からの
言葉だったのです。
「え?今までの治療は痛かったんですか??」
と聞くと
「いや、痛くないし、スッキリはするんだけど、、、
バキッてくると思ったら構えてしまうから、
先生の治療はやめとくわ」
それを聞いた瞬間、頭がザッと真っ白になり
血の気が引くようなショックを受けました。
高く伸びた鼻は完全に折れました。
「治るんだからいいだろう」
と思っていたのは慢心でした。
すぐには受け入れられませんでしたが
技術におぼれ、人を診てなかったんだと
時間をかけて反省していきました。
「死にものぐるいで手に入れた最高の技術を
手放すべきなのか・・・」
「治療法を変えるにしても、
治療効果の水準は絶対下げたくないし・・・」
「はたして、今以上に効果の出せる技術は
この世にあるのか??」
毎日毎日、自問自答を
繰り返していました。
いろんな人に相談しました。
国内外いろんな治療を勉強しました。
必死にもがいていました。
もがき過ぎて
もがき疲れて
インドへ一人旅に出たりしました。
自分探しと言いますか
答え探しの旅・・・みたいな感覚で。
行ってみて気付いたことがあります。
初海外の初一人旅で
「インド」は、かなり無謀だったようです。
到着したインドの首都
ニューデリーの空港内はまだ深夜。
「完全に不安でいっぱいです!」
「何をどうすればいいのかわかりません!」
って顔をしていると
その様子を見ていた三人組が
何から何まで教えてくれました。
話してみると年下だったのですが
とても気が合い、
まるで古くからの友人のように
すぐに仲良くなりました。
次の移動まで時間があったので
少し行動を共にすることに。
まだ午前の3時頃だったか
まだ真っ暗な中、バスで中心地の
デリー駅へ向かい、辺りを散策。
崩れかけ?工事中?な建物。
砂ぼこりの舞う中、路上で寝ている人。
野良犬、野良牛。
大量のごみと大量の糞。
観光客の私たちに気づき
後をつけてくる人が4人、5人と増え・・・
危険を感じたので
再会を約束して解散することに。
それぞれの目的地へタクシーで向かいました
ただし、その捕まえたタクシーが
偽タクシーだったのです。
気が付けば、どんどん山奥へ連れていかれ
人気のないところへ、、、
車を止めたと思ったら、
「お金を出さないと捨てていくぞ!!」
と、ナイフをチラつかせ
脅されてしまいました。
心臓がバクバクして、
文字通り、背筋が凍っていきました。
車内に大音量で流る地元インドの音楽が
頭の錯乱に拍車をかけました。
すると、遠くから車のライトが光り
タクシーが近づいてきました。
仲間か!?
と覚悟を決めていたら
さっきまで一緒にいた3人組だったのです!!
助けに来てくれた!!
すぐさま駆けつけてくれ
何とかその場を治めてくれました。
安心したのやら、優しさに感動したのやらで
泣きそうになりました。
おそらく、ひざはガクガクに
震えていたと思います。
本当に怖い体験でした。
その後の旅も
騙されたり、優しさに触れたりを
繰り返しながら
大きな刺激と大切な何かを手にし、
インドの旅は終わりました。
想像していた以上に
収穫の多い、価値のある旅となりました。
「出会いの大切さ」
「思いやりの大切さ」
など、
改めて気づかせてくれたように感じました。
インドで運命が変わったかのように
旅から帰ってきたとたん
いろんな話が
「これはスゴイ」と
業界内で噂になっていた治療を
勉強できることになったのです。
心底リラックスできる気持ちいい治療で
生まれたての赤ちゃんから
骨粗しょう症のおばあちゃんまで
安心して受けられるほど優しく、
一流のアスリート、格闘家、
たちどころに変えてしまう
魔法のような治療という話。
治療効果も、今までの比ではなく
もっと、もっと芯の部分から
今までやってきた治療とは
「そんな治療、特殊な才能を持ち合わせた
と自分自身の選択肢に入れていなかったのですが
習得できるかもしれない治療だ」と聞き
人生をかけてみることにしました。
ただし、誰でも入会できるわけではなく
厳正な審査と、それなりの研究費も必要なので
先輩の推薦がなければ、
審査の対象にも入っていなかったと思います。
厳しい難関を突破して入会できた人でも
続けられる人は、ほんの一握りで
脱落者が本当に多いと聞きました。
「どんな勉強をするのか??」
「瞑想したり、気を高めたり、特殊な練習なのか?」
不屈の精神でこの治療を習得しました。
院名は
今まで支えてきてくれた
みんなへの感謝の思い
それと
これから新しく出会うことになる
患者さまたちと
「友の輪」
で繋がっていきたいという思いで
「ゆうわ」
そして、あなたを一番元気だったあの頃へと
「リセット」
させるという思いを込めました。
特別な宣伝もなしで、
看板すら付いていない状態なのに
噂と紹介だけで
たくさんの方を治療させていただけています。
本当に感謝の思いでいっぱいです。
これは全力の治療でお返しします。
あなたの人生において最も大切にしていることは何ですか?
ゆうわリセット治療院はあなたの理想を叶えるお手伝いをします!